神戸電鉄の前身である神戸有馬電気鉄道の開業当時、新造されたデニ11形(11〜14)
       有馬寄に積載荷重2tの荷物室を設け、デ1形と共に活躍しました。
       戦後は荷物室を撤去、立席スペースとして使用されていました。
                                                        (写真ご提供:神戸電鉄梶j


          −神戸電鉄の小荷物・手荷物輸送について−



     
神戸電鉄の貨物輸送や貨車については、時折鉄道雑誌の特集で話題になったり、拙HPにおいても車両ガイドにて
      皆様からの貴重な写真のご提供を頂いたりしていました。
      ところが、手荷物及び小荷物の輸送については殆ど話題になる事も無く、あまり知られていない過去の歴史の
      一部分でした。


      ちなみに手・小荷物とは何ぞや?今の若い方だとご存じない方も増えて来たかもしれませんね。

      簡単に申し上げると・・・
      手荷物・・・旅客の目的地までの荷物を駅窓口で預り、原則として到着駅の窓口で受け取るもの。通称チッキ。
      小荷物・・・駅窓口にて荷主より受付した荷物を、鉄道・自動車等を通じてお客さんへ配達するもの。現在の宅配便。
      いずれも営業上では、旅客運輸の一環として位置付けられていました。

      昔の旧国鉄には荷物車や荷物列車が全国を走っており(列車種別は旅客列車なので大型時刻表にも運転時刻が掲載
      されていた)日本中の鉄道網を利用して「ふるさとの便り」を届けていたものです。
      小荷物輸送は、いまではクロネコをはじめとした宅配便事業に取って代わられ、その姿もすっかり様変わりしました。

      今ではJR・私鉄とも荷物輸送は殆ど廃止、近鉄の鮮魚列車が僅かに昔日の面影を残して現在も活躍を続けていると
      いったところでしょうか・・・。



      さて、今回の話は、いつも拙HPをご覧頂いていた「キハユニ15」さんからのとあるメールがきっかけでした。
      ご本人様の了解を頂きましたので、今回のご質問内容をご紹介しますと・・・。

       
「神鉄で過去には貨物輸送が行われていたとのことですが、神鉄でも荷物輸送がおこなわれていたのは
       ご存知ですか?
       私が、小学生のころ、少なくとも、小野-粟生間では行われていました。
       今まで、荷物輸送の件では、HPで見た覚えがないので、
       詳しい事をご存知でしたら、教えて下さい。

                                                 (原文のまま。一部改行させて頂きました)

      という訳で、手許の資料を調べて見ましたところ・・・


      手・小荷物の営業(旧国鉄との連絡含む)は、昭和3年の神戸有馬電気鉄道(湊川〜有馬温泉、唐櫃(現有馬口)〜
      三田間)の開通と同時に、10駅で取扱を開始しました(駅名は不明)
      昭和27年4月の粟生線粟生駅乗り入れ時には19駅に拡大しています。
      一方、貨物輸送も旧国鉄との連絡運輸を行い、貸切扱(車扱:貨車を一両単位で貸切って貨物輸送を行うこと)及び
      小口扱も開始しましたが、モータリゼーションの進行に伴って次第に縮小、昭和38年9月1日付で車扱貨物は廃止
      されました。
      尚、小口扱も含めた貨物輸送は昭和47年1月1日付にて正式に廃止手続が取られています。
      (国鉄自身の小口扱貨物も、昭和49年には小荷物扱に統合されました)
      又、手・小荷物輸送についても、昭和47年8月からは自動車による代替輸送に切替えられました。

      

      当時の様子を、前述のキハユニ15さんが語ってくれました。引続きご紹介していきましょう。
      時期は昭和46〜47年頃の粟生〜小野駅近辺の様子です。

       
「当時は、加古川線でキハユニ15連結列車で荷物輸送が行われていましたので、 神鉄でも、それに
       連絡するかたちで、荷物輸送が行われていたと思います。
       加古川線では、12時台の上り列車がキハユニ15連結の3両編成でした。
       神鉄では、たしか、粟生着12時頃の列車に小野駅から、荷物を積み込んでいたのを何度もみました。
       通常の粟生行列車とは異なり、今は留置線になっているホームから荷物扱い列車は発車していました。

       当時は、粟生行は2扉車ばかりだったのですが、粟生方先頭車の前よりドアから荷物を 積み込んでいました。
       電車の床に直置きや、座席上にも積んでいたような記憶があります。
       粟生駅では、国鉄職員が待機しており、ドアが開くと同時に荷物を降ろしていました。

       中学、高校時代は、あまり神鉄にも、加古川線にも乗車することがなかったので、
       (中学、高校は自転車通学でした)いつごろまで、続いていたのか分かりません。
       ただ、キハユニ15が廃車になった時点で、加古川線の列車での荷物輸送は終わった はずですが、高校時代の
       数年間(もしかしたら1年ぐらい)某運送会社のトラックが 国鉄代行の表示を掲げて、粟生駅に出入りしていました
       (昭和56〜57年ごろだったかな?) ので、その間は神鉄の荷物輸送も続いていたのかもしれませんね。

       加古川線の荷物輸送は、トラック便化後、国鉄全体の荷物廃止よりも数年早く廃止されて いますので、実質的には
       少なくとも粟生線末端部の荷物輸送は廃止されたのでは?
       昭和60年3月の三木線、北条線廃止後、暫くして、粟生駅も早朝夜間は無人化されました。
       朝夕には、分割併合列車が有り、たくさん駅員がいたあのころが懐かしいです。」

                                                  (原文のまま。一部改行させて頂きました)


      











 昭和50年代中旬まで現存した、
 旧国鉄加古川線の荷物輸送風景。
 荷物・郵便合造車のキハユニ15が
 活躍していた頃の写真です。
 (モノクロームの残像より)






      当時の話の続きです。

       
「ご質問の神鉄での荷物輸送時にカーテン等の仕切りはあったのか?ですか。
       私の知る範囲では、特に何もなく、通常、乗客の乗るスペースに積まれていました。
       小野駅-粟生駅間は5分間程度でしたので、特に処置をしなかったのかも知れません。
       小野駅着の時点で既に荷物が積まれていたかどうか?は記憶にはないのですが、小野駅の停車時間の数分間で
       積み込まれていたので、昭和50年頃には、 たいした輸送量がなかったのか?
       それとも、昼頃以外の列車でも輸送が行われていたのか? は分かりません。」

                                                  (原文のまま。一部改行させて頂きました)

      その後の小荷物取扱は年々減少、昭和55年度には62,656個の取扱だったものが僅か3年後の昭和58年度には
      11,636個にまで激減していました。この約81%もの大幅な減少要因は、ご存知宅配便の普及によるものです。
      この頃には既に必要経費が収入を上回る状態でした。
      手荷物は昭和54年7月より、連絡運輸の中継駅変更による諸各連絡運輸の範囲縮小等により、以後の実績は
      事実上0となっていました。   

年度 手荷物 小荷物
35 1,009 146,771
40 462 172,674
45 770 187,068
50 323 115,726
55 0 62,656
58 0 11,636

  そして昭和59年5月からは当時の神鉄観光売店にて宅配便の取次ぎ業務を開始、
  同年11月13日付にて手荷物、11月15日付にて小荷物輸送の廃止認可を運輸省より
  得て、11月16日より正式に営業廃止となりました。

  ちなみに、手・小荷物の取扱個数の推移は、左表の通りです。
  (年度は昭和、数字は取扱個数を示す)








      当時の小荷物輸送風景、是非見てみたかったですね・・・。


      

      現在も2680系3連の専用編成が大阪上本町〜宇治山田間を結ぶ近鉄の鮮魚列車。
      完璧な荷物電車では有りませんが、行商の方々を乗せて今日も新鮮な海の幸を運びます。


      今回のテーマにあたり、写真及び資料の掲載については神戸電鉄鞄搖本部総務グループの許可を
      頂いております。(無断転載並びに本社等へのお問い合わせは厳に慎んで下さい)
      又、当時の貴重な想い出話については、キハユニ15様のご快諾を頂戴致しました。
      この場をお借りして、厚くお礼申し上げます。



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